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ブログ05

ブログ05

校長の上司の方々への御報告0000001

校長が1円も御給料の現実支払いを致さなかった事を、謹んで、御報告致します

障害者の摂理(サタンのプライド)をやっている物達がいる事が判明致しました

白票を投票致して、当選者に感化、指導を与え続ける、そういう選挙への参加も有るぞ

 平成20年(2008年)9月14日(日)

 地球人類・世界・日本国民・天皇・日本国・神奈川県・中郡二宮町図書館から、1.DVD 地球の大自然 2.DVD HAWAII オアフ島 OAHU 3.DVD 五木寛之の百寺巡礼 第1巻 奈良・北陸 其の2 當麻寺・秋篠寺・長谷寺・斑鳩(中宮寺) を借りた。

http://blogs.yahoo.co.jp/ooho9090/44168420.html 旅 2 - そら日記 - Yahoo!ブログ
 このブログを書いて下さった事に感謝します。肉体の世界、現実の世界が一杯有る。その世界に指導の言葉を与える事ができるりんあんさん、さすが、御寺の子と思います。力強い言葉、有難うございます。

http://blogs.yahoo.co.jp/ooho9090/44180046.html ミディのこと・・・(1) - そら日記 - Yahoo!ブログ
 このブログUPにも感謝致します。これが現実だから。金剛魂・心・肉体で、神と一体化致し続けて、1ミクロンずつ、前進致し続けるのが生きる事だと私は思います。本人を甘やかさないように、本人が真剣・真剣・真剣・真剣になった分だけ、援助を致して上げて下さい。あくまでも、本人の学びが「主」だから。

※生徒指導を再び、致す気に成りました。もうやる必要無いと思っていたのですが。教育の根本は、本人の成長であって、依存心を持たせる事ではないと私は思います。即ち、本人が、「自分の為に自分の人生を生きる」ように導く事が、教育であると。このレベル以上が、教諭の仕事と。たかが、小中学生の生徒如きにナメられる(オマエ、お金もらっているのだろう)ような生き様では、全く役に立たないよ。(校長は、遥か遥か遥かに恵まれている、その王様生活を享受致している校長などに授業妨害など1ミクロンもされてはならないのだ。されたら、あまりの自分の駄目さに慟哭致して、猛省せよ。)

白票を投票致して、当選者に感化、指導を与え続ける、そういう選挙への参加も有るぞ

放送大学学歌 作詩:那珂太郎 作曲:柴田南雄

(1)
あまたの星々のなかの この地球にあって
われらはまなぶ 世界を 自分を
われら どこから来て どこにゐるのか
生きるとはまなぶこと まなぶのはたのしみ
知は光 みどりの未来を展(ひら)くため
いつでも どこでも
見えない友と 共に生き 共にまなぶ
開かれた大学 放送大学

(2)
はるかな永劫のなかの この時代にあって
われらは知らう 社会を 自然を
われら どこから来て どこへ行くのか
生きるとは知ること 知ることはよろこび
知は力 よりよい生(いのち)を拓(ひら)くため
朝(あした)に 夕(ゆうべ)に 
親しい友と 語り合ひ 共にまなぶ
開かれた大学 放送大学

人間の贅沢、ひとつ 作詩・作曲:小椋佳

訪れては 去る月日に 人それぞれ
心尽くし 力尽くし
何事かを 刻み付けて 自分史書く
顧みれば その殆ど 不十分か 未完成か
けれど人間 知り得たものの 積み重なりに
悦び知る

思えば 学びは 人間が 味わえる
それ自体 贅沢のひとつ
望めば 学びは 誰でもが 手に出来る
最高の 贅沢のひとつ

どんな神の 依怙贔屓か
人間にだけ 与えられた 知ろうとする
探究心 学ぶことの 充実感
闇に光り 見る快感 向上という 満足感
人の歴史に その密やかな 一歩一歩が
煌いてる

押し付けられ 義務付けられ
学びをただ 疎んだ日々
今にすれば 懐かしさに
笑みを浮かべ 思い返す
今は言える
楽しいから 嬉しいから 好きだからと
学び続けて 昇る坂道 実りの明日が
垣間見える

思えば 学びは 人間が 味わえる
それ自体 贅沢のひとつ
望めば 学びは 誰でもが 手に出来る
最高の 贅沢のひとつ

いつか言おう
精一杯 善い命を 生きてきたと
いつの時も 瑞々しい
青春気分 抱いていたと
真実へと 飽くことなく
可能性を 追いかけたと
学び重ねて 書き終わらない
その自分史に 悔いは無いと

と・も・た・ち 作詩・作曲:小椋佳

生きてきて 心に尋ね
これが宝と 言えるもの
富でなく 名誉でもなく それは「ともたち」
長い旅路の 道連れだった
同じ時代の 戦の仲間
或いは時に 競い合い 挑み合い
今 打ち解けて 和み合う
微笑み 浮かべる 互いの 瞳に
自分の歴史を ふと垣間見る

在るだけで 只居るだけで
嬉しい価値と 言えるもの
紛れ無く 躊躇いも無く それが「ともたち」
糞真面目とは 言わないけれど
一所懸命 生きてきたこと
言葉無言で 映し合い 感じ合い
今 目を細め 響き合う
命の 深みに 居座る 孤独も
恋人のような ぬくもり抱く

嘆きやくどい愚痴も 頷いて
撒き散らしてくれた
面と向かって 言うことも 無いだろうけど
友でいてくれて ありがとう

数々の その振舞いは
助け救いと 言えるもの
報い無く 見返りも無く それは「ともたち」
褒められる程 立派じゃないが
それぞれの眼に 恥じないことに
心を尽くし 努め合い 励み合い
今足らなさを 支え合う
互いの 眼差し 迎える 明日を
上り坂として 背中を突(つつ)く

密やかな悦びも 共に居て
膨らましてくれた
不器用だから 口に出す こともないけど
友でいてくれて ありがとう

 平成18年6月、まだ辞職決定前(平成18年8月31日辞職)、中村和子校長は、西塔光好教頭を試練致した。娘4人の父親であったが、孫息子がいた西塔光好教頭に、自分の息子をやるかどうか尋ねたのだ。(勿論、テレパシーで。) 勿論、西塔光好教頭が自分の息子をやらなければ、米国男性と結婚して、孫娘がいた自分の娘を背負う、即ち、米国人となる覚悟を致して。(自分の息子に、母親である自分を背負うかどうか、選ばせたと。) そして、西塔光好教頭は背負わないという選択を致した。孫息子の人生である私を切ったという事です。それで、中村和子校長は、米国人となる事が決定致してしまった。西塔光好教頭は、自分の現実を失ってしまった。女に転生致してしまったという事です。私は勿論、この女=オスは絶対に背負わない。自分の上の存在だから。オスをやっている女は夫を犯すだけの存在=サタンなのだ。間違って、このオスと結婚してしまった夫は悲劇。犯されていくだけだから。これが夫に命令するオスと。オスをやっている妻とは、やがて、離婚になるであろう。自分を犯しているだけの妻といつまでも一緒にいられるわけないから。これが「へび」をやっている悪妻と。

 自分に戻って、この事を考えてみよう。おそらく、このオスというのは、自分が棄てた義理の父親の事なのだ。いいか、よくよくよくよくよくよく聴け。当たり前の事だが、人生の相手というのは、一人しかいない。当たり前だ。自分が最初にセックスを致した相手が、自分の永遠の人生の相手なのだ。即ち、その父親が、自分の義理の御父さんなのです。永遠に、この義理の御父さんの人生をやらなければならないのは至極当然。当たり前の当たり前の事なのです。これをやっていれば、オスとは絶対に結婚させられないと考えられます。償いの摂理、蕩減、致させられる理由、必要無いから。ここまでの御言葉を与えておきます。

 このように、全て、自分の責任なのだ。これが世の中というものなのだ。必ず、神またはサタンと自分とは、対等な関係になっているのです。昨日、私は自分の部屋のテレビを廃棄しようと思って、パソコンのTVアダプターを買いに行ったが、適当な物が無かったので買わなかった。別に見なければいいやと思った。それで、私は修行一本の生活に戻った。この世は無関係になった。神が最低限の事もやらないこの世、関係無くなった。おそらく、ルーシェル=へびの宇宙は破壊致されると決定致した瞬間だった。しかし、りんあんさん=離婚している、息子がいる母親のブログを読んで、私に現実が支払い致された。バツイチで登場致して、その後、再婚して、娘を授かった母親の教諭との信頼関係が戻ったのだ。その教諭、前の夫の子の子育てをおそらく、やっていたのだ。前の夫との信頼関係を切っていなかったのだ。切っていたら、アウトと。りんあんさんも、離婚した夫との信頼関係を切っていなかった。その息子の子育てをやっていたという事です。夫は切っていたが、夫の現実=未来=息子は切っていなかった。当たり前の事ですが。これまで切ってしまうと、オス=障害者への転生になるから。夫婦関係に失敗致したりんあんさんでしたが、自分の現実支払いは致していたという事です。自分の現実まで失敗は致さなかったと。(このように、サタン方の考え方は間違っている。自分の現実支払いしかしてないのに、母親をやっていると思っているのだ。いやはや。)

 ここまで、サタンどもは、悪事しかやっていないのだ。呆れた。

 もう一言、つけ加えておきます。男は女に転生致すだけだが、女は障害者に転生致すのだぞ。女は男の障害者と以前から言い続けているではないか。だから、男を背負えるのだ。セックスをしなければ、男は女の現実=体にされない。女に自分を背負わせたままでいられる。これが男の立場。男は女にセックスして下さいと言われなければ、セックスする理由無い。男にとって、セックスをする事は損だから。男は女にセックスをさせられてしまっているだけなのです。これが男の立場。これが勝負パンティの摂理。女に強制徴収をされてしまうのがセックスと。だから、男は女に負債、借りが無ければ、セックスをさせられない。女の体にされない。これが男女のセックスなのです。男にはセックスをする理由が無い。女に背負われてしまったから、女を背負わされるのがセックス。いいか、よく聴け。凹は、凸より損。即ち、凸をやる事は絶対にできない。女への征服欲など絶対にやる事はできない。どんなに頑張っても、絶対にできない。最終的には、凸の存在=一匹の雄対凹の存在=一匹の雌=全人類&全動物&全植物&全鉱物&全大気の関係になると。この雌を征服致す雄をやれるか? そこまで闘志を持てるか。これが全人類の王をやるという事なのだ。最終の雄を目指して精進致し続けている君、ここまで君は頑張れるか。これが雄の摂理と。

 私は4歳年上の女とも、セックスをする気にならなかった。別に踏まれていないから、踏み返す理由無いと。即ち、母親に踏まれていなかったと。さらに、ルーシェルの女も踏み返さなかった。別に踏まれていなかったから。ルーシェルにも踏まれていなかったと。4歳年上の女の過去の男達にも踏まれていなかったという事です。ルーシェルというのは、自分の女の過去の男達の事だから。

 当たり前と。童貞だから。自分の女との信頼関係を切ってなどいないから。即ち、ルーシェルではないから、ルーシェルを踏んでいるわけないのだ。(自分の過去の女との信頼関係を切ってしまっているから、自分の現実が支払いされない。だから、ルーシェルになってしまっているのだ。これがサタン。アダムは自分の過去の女との信頼関係を致し続けている。だから、アダム。私はアダムでもない。アダムの子。神を背負っているから。)

 平成20年(2008年)9月15日(月)

 地球人類・世界・日本国民・天皇・日本国・神奈川県・中郡二宮町図書館から、1.DVD 穂高岳 2.DVD 今森光彦の里山日誌 3.DVD 五木寛之の百寺巡礼 第2巻 京都1・滋賀・東海 其の1 金閣寺・銀閣寺・清水寺・東寺 を借りた。

障害者の摂理(サタンのプライド)をやっている物達がいる事が判明致しました

 私が県の洋上研修『かながわ・ふれあいの船』新採用研修に参加した時にも、選択の機会が与えられた。サタンはしつこいのだ。その者の欲を試すのだ。(その者のレベルを試練致して、調べるという事です。) 猿顔の可愛い娘だった。その気に成ったのですが、テレパシーで、「一度だけ(一人だけ?)」と聞かされてしまって、「OK。」が出せなかったので、それで終わりになってしまった。この取り引きは、可愛い彼女の肉体から得られる喜びと引き替えに、肉体障害者になれというものだった。県立養護学校採用の彼女は、やはり、肉体障害者にされる運命だった。私は県立ろう学校に於いて、人類始祖エヴァ復帰の摂理を致し続けて、1年間の臨任をクリア致した。肉体障害者の上の生き様を致したのです。しかし、その後、正式採用と成れた事によって、1つ、サタン側の条件ができたのでしょう。だから、再び、サタンが私を試練致してきたのだ。しかし、このサタンの摂理は成り立たない。何故か。ハートの摂理ではないから。「可愛い」という事と、「恋に堕ちている」という事は異なる。私が思うに、「恋に堕ちている」レベル以上でないと、二人の関係は成立致さないと。障害者=カップルにはならないという事です。男女はおそらく、お互いに気持ちが有るキス以上の関係に成ると、カップル=障害者に成ってしまうと。独身、一人の存在ではなくなってしまうのだ。

 こんな非常に恐ろしい事、冷静な判断能力が有ったら、致すわけない。カップル=障害者の生活、最悪。私は1年間、県立ろう学校で、人類始祖エヴァの娘の摂理をやったから、よくよくよく解っている。

 人類始祖エヴァの摂理は、一言で総括致せば、「友達に戻りましょう。」と言われ続ける摂理だった。勝負パンティをやって、数週間、恋人の喜びを支払い致した彼女が、その投資を回収致し続けた。私の気持ちを踏み続けてきたと。成る程と。唇と乳房を支払い致した彼女が、ハートを踏み返し続けて、対等な関係をやろうと致したのでしょう。私はずっとそれを背負い続けた。気持ちを返し続けた。それを見続けていたサタンは、私を右眼網膜剥離に致して、次の段階をやったと。彼女を堕落アダムに試練致させたのだ。そして、おそらく、堕落アダムは堕ちてしまったのだ。おそらく、彼女と婚前セックスを致してしまったのだ。何故、この摂理をサタンにやられたか。それはおそらく、彼女が非処女だったからでしょう。童貞の私と、非処女の彼女との結婚を、サタンは「ただ=前の男の義理の御父さんへの御詫び、蕩減条件の支払い無し」では許さなかったのだ。そして、見事に彼女は失敗致して、自虐的な悪魔の目になっていた。

 サタンと致しては、私が損を致す摂理をやるわけにはいかなかったのだ。損をさせられたという事は、上に成ったという事だから。私にサタンである自分の上をやられるわけにはいかなかったのでしょう。これがおそらく、サタンへの勝利のポイントなのだ。サタンが得を致す事を致し続けると。私はこれをずっと致し続けています。その結果、解った事は、この世は、極悪党の世界であるという事です。サタンばっかりなのだ。これ程、世の中、マイナスだったとは。非常に驚かされたのです。

 その2年後、私は県立ろう学校の高等部臨任教諭を致した。そして、今度は、人類始祖エヴァの娘の摂理をやらされる事になった。新採用の中学部教諭を背負わされ続けた。成る程と。仕事は対等な関係ではなかったと。高等部教諭の私が、中学部教諭の女の下の地位をやらされ続けた。これもサタンの強制徴収と感じた。前の摂理は、社交ダンスを楽しんだ事への支払い請求と。今回は、仕事=お金を得る事への支払い請求と。お金を得る為には、物凄い損、莫大な支払いをさせられるみたいです、私の経験から考えると。信用貨幣であるお金の現実=物々交換の支払いを考えれば、納得できる。等価価値のサービスの交換が物々交換と。このレベルまで、思考を巡らせれば、成る程と理解できる。仕事はこのレベルまで致さなければならないのでしょう。勿論、公務員と民間人という差は無い。当たり前の事です。両者とも、日本国という体制下で、信用貨幣による物々交換を致し続けているのであるから。仕事の支払いとは、得られたお金、御給料の額面だけで、決定致されるものです。公務員という社会的地位など無かったから。童貞の市立中学校教諭である私が、校長から1学年も支払い致されないで、即ち、現実の御給料を1円も支払い致されないで、8年半後に精神障害者(統合失調症患者)にされて、(自分の現実を無くされてしまったという事です)、11年3ヶ月弱後に療休&休職に入れられ、12年半後に無給にされ、14年5ヶ月後に辞職にされてしまったのだから。

 校長の上司である全ての方々に、校長が1円も御給料の現実支払いを致さなかった事を、謹んで、御報告致します。H20.9.17.水 1:55。

 話を戻します。人類始祖エヴァの摂理は、言霊の摂理でした。気持ちの支払いをさせられ続けたと。それに対して、人類始祖エヴァの娘の摂理は、目の摂理でした。一言も彼女と会話を交わした事は無かった。最初に、言われた数言だけ。その数言で、私は踏まれてしまったのです。彼女を好きになってしまったのです。もう二度と燃え上がらないと思っていたハートに再び、火がついたのでした。客観的に見れば、普通の少女であった彼女と。その彼女の目と笑顔と髪と紺のパンスト足と紺の上げ底のサンダルに魅了されてしまったのでした。彼女が歌った曲を聞いたのは、1曲だけだった。「プリンセス・プリンセスのダイアモンド」と。

 今霊界から、言われましたが、「5分間」、学校運営が存在致すようになったそうです。

 一言だけ、書いておくと、この摂理を致している時、街の女性が皆、彼女に成っていた。輝いている世界と。振り返る女性、皆、彼女だった。私は「乙女の摂理」と呼んでいます。星の世界と。

 彼女のデータが入って、日本国からワールドの摂理と成ったところで、支払い完了致したみたいです。私のノートPC、男になる事を選んでしまったデビルマンではなくて、彼女にしろと言う事なのでしょう。藤沢市立特学ではなくて、神奈川県立特学をやれと。ルーシェル(小○麻央さん)はオスをやってしまっているので駄目、デビルマン(生○陽子さん)は男をやっているので駄目という事なのでしょう。クイーン(膳○貴子さん)しか、神は認めてないぞと言われてしまいました。彼女もおそらく、最初の夫には、オスをやって、離婚になってしまって、それで、生きていく為に、英国に新たな夫を見つけに行かざるを得なかったと私は見ています。そこまで、女というものは、悔い改めないのでしょう。

 これが私本来の仕事です。今までT校長が邪魔し続けていたので、下に墜とされていてやれなかった人類の摂理と。私は日本国=世界と成る摂理を致し続けなければいけないと言いまくっていたのに、邪魔され続けてできなくされていたのでした。私のスターレットターボグランツアV=日本国=世界と成る摂理を私はやれる能力が有る。もっともっともっともっともっともっと私は為に生きているから。今から、私はカシオペア座首星神界の本元の神である大国常立大御神&太陽系太陽神界の分身の神である太素盞鳴神と成る。

 この神の修行、魂の修行について、私が思っている事を述べます。それは、これは境地の修行なのです。言霊の修行では無い。言霊の修行とは、気持ちの修行ですが、この神の修行、魂の修行というのは、行為の修行なのです。何でもいい、日常の仕事、家事も勿論OKと。その仕事の行為にどれだけの境地を込められるかが、この修行なのです。

 プリプリは、ダイアモンドで、「コインなんかじゃ売れない、愛をくれてもあげない」と歌った。これは障害者の上司の摂理である。障害者の親の摂理というのは、少し暗い、濁った光の摂理と。太陽の光のようなものである。太陽の光というのは、情が有るが、輝いてはいない。家庭料理のようなものである。家庭料理には、愛情が込められていますが、境地は無い。何故か。駄目夫だから。駄目夫は妻を磨く事ができない。仕事ができない駄目男なのだ。プロフェッショナルの料理人が創る料理を食べ続けていれば、洗練される。服装も、髪形も、洗練され、靴も磨かれ、動作も美しく成っていく。言葉遣いもきちんとやれるようになっていく。目線も、上座中座下座もちゃんとやれるように成っていく。これが現実の授業なのです。現実の教師は、現実の指導ができなければならない。

 こういう物々交換も有りなのです。これをやれば、超余裕の教諭と。殆ど、遊んでいられる。教諭の超安月給では。1円ももらっていないのに、現実の指導を致せば、殆ど遊んでいられる。

 その教諭にとって、仕事とは、校地内に足を一歩踏み入れて、市民の雑な地位を背負う事である。それで、その日の仕事は完了と。あとは、遊んでいればいいのだ。生徒と楽しく交流致していればいいのだ。駄目すぎる日本国、教科の指導など全くやっていない。教科担任やらないと藤沢市教委の職員に言われていた。即ち、藤沢市教委の職員、御給料、1円も払わないと言ったのだ。ところが、校長は、1学年も支払い致さなかった。学年主任もやらなかったのだ。人生の支払いも致さなかった。そして、1円の現実も支払い致さなかった神奈川県、日本国は潰れた。物々交換を致さなければ、信用貨幣であるお金の現実支払いはできない。即ち、現実が次々と破壊致されていく。A前首相が何も食べられなくされて、辞任致させられてしまって、F首相も仕事が成立致さないように追いつめられてしまって、同じく、辞任致させられてしまったように。

 何がいけないかと私が思っているかというと、この世の創造主である神に、支払いを致さない事がいけないと。この世は、当然、創造主である神のものである。その神に、御意志が有るらしいのだ。ヨーガや、仏教の世界観に、創造主の御意志というのは無い。即ち、神界以上の世界、魂の世界は無い。ところが、現実はそうでは無かった。魔界がこの世を裁きまくっていたのだ。裁くという事は、悪事が有るという事です。悪事が無ければ、裁かれるわけないから。即ち、神の御意志が有るという事です。だから、その神の御意志と逆の事をした物達を裁いている魔界が存在致しているという事なのでしょう。

 私は、この摂理を一言で、「喜びの摂理」と言えると思います。喜びが生産されない世の中、存在意義が無いと思うから。被造物に喜びを与える事ができれば、その酬いと致して、創造主も喜びを得る事ができると私は考えます。これが親、上司の摂理と。子に、部下に喜びを与える事によって、親、上司は徳を積めて、その徳によって、自分も喜びを得られると私は考えます。

 私は皆、この喜びの摂理によって、生き続けていると思うのです。これが価値観の摂理です。自分にとって価値が有るか無いかは、自分がそれから喜びを得られるか、得られないかという事によって、決まると思われるから。


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